きらぼし歩中会の高橋延生さんより寄稿がありました。『百名城巡りの中の東北5名城を訪れて』

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先日、新発田城・久保田城・秋田城・山形城、それから米沢城を見学してきました。

 

一番、おもしろかったのは秋田城です(秋田駅からバス約 20分)。6世紀から10世紀 に存続した古代城柵ということ。つまり、大和政権下の出羽地方の軍事・行政の中心 であった。ということは、戦国時代の城と全く異なり、戦う為の城塞でなくミニ・ミ ニ京都という点です。つまり、この地方の豪族、国人を治めるため、奈良の本庁から

出羽の地方局の役目をしていた、ということのようです。大きな広場が最初見えたのですが、それは広場でなく大通 り、つまり道でした。それから秋田という名前の漢字表示が、この時代、城は「阿支太(アキタ)城柵」となって記されていたとのことです。

 

    あと、日本で何百とある城跡で、この城しかないのが「水洗厠舎(カワヤ)」(写真①,②,③)です。平成6~7年発掘調査で発見され、現在復原されてます。便槽から沼地の方に傾斜方向に伸びる木樋が埋め込まれ、沈殿槽に取り込まれます。水洗施設が機能的に整備されているのです。奈良時代には、ここに中国大陸にあった渤海国から使節が来航していた記録があるとのことです。  

③厠舎内の手洗い用甕と便器

 

東大手門

(高橋 延生)

コメント:

渤海国と秋田との間で、6~7世紀にすでに交流があったとは驚きです。水洗トイレで使節を、おもてなしされとは素晴らしいですね。確かに中国東北部と秋田は、緯度が同じで真東に進めば近そうですが、日本海の荒波をよく越えてこられたと感心します。また、大和政権の勢力が6世紀に秋田まで及んでいたことにもビックリしました。山形城には数回行きましたが、最上藩57万石の巨城ですね。山形市が足かけ50年の歳月を掛けて修復していると10年くらい前に聞きましたが、整備は進んでいましたか。また、お城巡りのご報告を楽しみにしています。(井上 修)

井上さん、コメントありがとうございました。山形城に数回訪問しているとのこと、嬉しく思いました。山形市はおっしゃる通り、城の再建に熱心で、東大手門と本丸一文字門がとても立派に再建され、その豪華さに驚きました。(高橋 延生)

ウォーキングをしているときに高橋さんからお城の話を聞くことがあります。お城ごとの感想も聞かせていただき、行ってみたい衝動に駆られることもあります。今回の秋田城の水洗トイレが渤海国からの交易によってなのか、想像を駆り立てられます。ネットで調べると交易は北海道から日本海東北地方、北陸地方とあったようですね。これから百名城の紀行文を楽しみにしております。(長坂)

この度は、長坂さんのきめ細やかなご支援で、手記を掲載することが出来、誠に有難うございました。心から御礼致します。水洗トイレの件で、面白かったのは、秋田城歴史資料館の説明書では、「トイレの沈殿槽」から、豚肉を常食する人間を中間宿主として感染する「条虫」が発見されている。古代日本にはその習慣はなく、豚の飼育が盛んな中国大陸などにみられる食習慣とのこと。つまり、古代の迎賓館、外交・交流施設の役目を果たしていたんでは!と記載されておりました (高橋 延生)

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