[70代から始めた日本一周って!〕『鶴ヶ城・藩主松平容保』戊辰戦争後、どのような行動を取ったのか? 17,18/47 Division 3ー②

 

2024年9月26日~29日 17,18/47 今回の日本一周に訪れたところは『新潟・福島の旅

Division 3-② 戊辰戦争の地 会津若松市 藩主松平容保を訪ねて  2024/9/28~29 

 

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        今回の福島・新潟の旅の締めくくりは、『会津若松』

   戊辰戦争の中、飯盛山で19名の白虎隊員が自刃したことで有名な会津若松市

 

                            Division 3-① では、将軍徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いに敗れ、

                           江戸に戻り上野寛永寺で謹慎生活に入った。その後、藩主徳川容保の取った行動は?

 

 松平慶喜は後の事を勝海舟と大久保忠寛に託し、上野寛永寺に謹慎生活に入った

1868年(慶応4年) 新政府は会津討伐令を出し、京都滞在中の仙台家老を呼んで早急な討伐を、盛岡、米沢藩には仙台藩への応援を命じた。

 

第9代藩主 松平容保    (写真:鶴ヶ城展示)

 

 慶応4年3月14日 西郷と勝が会見、15日の江戸城総攻撃を中止し徳川家を一大名として残し、慶喜の生命も保証される見通しがついた。

 その後慶喜は、徳川家のいる駿府に移り、宝台院に入った。  

その後の松平容保の行動は・・・

2月11日松平容保と家老連名の嘆願書を朝廷始め尾張、加賀、肥前、土佐など22藩に提出し、和平の斡旋を懇願した。

ところがこのことが藩内の主戦化の怒りをかい、容保を突き上げた。容保は恭順の本音を抑え、抗戦の準備を進めた。

 2月22日会津に帰った容保は、藩士一統への論告で、慶喜の都合もありひとまず帰国したが、会津討伐令が出されている以上、敵軍が攻めてきてもいいように防備を固めるよう命じた。       

  3月15日江戸城無血開城  

2月下旬には、新政府軍が江戸に進撃中ということで、徳川慶喜の出た一橋家の家臣・渋沢成一郎や天野八郎らが、慶喜を擁護しようとして結成した。

江戸城が開城となって新政府が江戸に進駐してくると、彰義隊と新政府兵士がぶつかるようになる。

5月15日 これを見かねた新政府は上野で総攻撃をかけ、一日で彰義隊は壊滅した。

8月20日 新政府軍は会津へ進展した。  

8月21日 母成峠に攻撃を開始、圧倒的な兵力の新政府軍の猛攻に、会津軍は陣営は次々と陥落、壊滅した。

8月22日 猪苗代湖に迫ってくると、容保は滝沢村の本陣に入って出撃を命じた。白虎隊は、風雨の中、戸の栗原を目指して進出した。

8月23日 会津藩は500人に対し、2600余人と最新武器で押し寄せ、会津藩はたちまち壊滅状態に、炎に包まれた鶴ヶ城を見た白虎隊は自刃した。

その内の1人飯沼貞吉は、村人に介護うけ奇跡的に蘇生した。最初から話したがらなかった飯沼貞吉は昭和6年に亡くなるまで多くを語らなかったが、文筆家たちが創作したり、文飾を加えたりした白虎隊の事跡に対し、敢えて反論しなかった為、それがそのまま「事実」として伝わっている点も多々あるという。

1868年(慶応4年)明治元年 9月8日鶴ヶ城の籠城戦最中に元号が変わる

下: 山本覚馬の妹、八重が最初に手にしたのがゲベール銃(写真:会津新選組記念館)

 

868年(明治元年)9月22日 容保は降伏を決断、およそ一カ月の籠城戦で会津藩は力を尽きた。鶴ヶ城北出丸などに降参と書かれた白旗が立てられ、追手門前の路上に緋毛氈が敷かれ、松平容保が文書を会津戦いは幕を下ろし、藩主容保父子と重臣たち謹慎所へ移った。場内で籠城していた5000人余りの人々も城を追われることになった。

明け渡し後の鶴ヶ城は、砲撃を受けても崩壊しない強さを見せつけていたが、明治7年に石垣を残し全ての建物が取り残された。

ここまで時系列で纏めてきて、私も戊辰戦争、会津藩、松平容保、白虎隊等を深く勉強できてよかったと思っている。

戦後、家老の萱野権兵衛が切腹、松平容保は切腹もせず、江戸に蟄居となった。新政府軍がここで切腹を命じていたら、末裔まで恨み言を残すことになったろう。その後明治13年(1880年)に日光東照宮の宮司となり57歳で亡くなった。  

家臣が反対する中、押し付けられて京都守護職となり、鳥羽・伏見の戦いでは慶喜に命じられ江戸まで同行させられ、ことごとくつらい思いをさせられてきたんだと同情するようになった。戦国時代と違い平和な徳川時代が長く続いた結果、新政府軍のクーデターが勃発、生れた時期が悪かったのか貧乏くじを引いた容保だったと思う。最後は日光東照宮の宮司になったことで、私は、旧会津藩が下北半島に追いやられ、つらい生活を強いられた人たちから恨まれることはなかったのではないかと思うようになった。  

会津若松市会津藩は『教育は百年の計にして、藩の興隆は人材の育成にあり』と百年先の見据えていくためにも、長期的な人材育成をしていくために『日新館』という教育の場を作り、会津戦争の65年前から人材を育ててきたのだ。

 

山本覚馬の妹、山本八重、後に新島襄と結婚し赤十字社員として篤志看護婦になる。生家が砲術指南役だったこともあり、八重も砲術の名手として籠城戦で活躍した。新島譲とともに新島八重は青年教育に力を尽くし、津田塾を立ち上げて女性の高等教育に取り組んだ津田梅子。山川3兄弟の末妹、捨松は戦後初の女子留学生の1人として渡米した。同じ女子留学生同志等が女子教育の発展を目指し、女子英語塾を開講した。(現在の津田塾大学)捨松と共に学校運営し、日本の女子教育の発展に尽くした。

 

高度な教育の賜物と、義をも重んじる教育の中で、藩主が一人戦いから逃げて、自分だけ助かって逃げるようなこと等考えるわけがないという事を強く思った。また、改めて会津若松を訪れ、『會津藩校日新館』を訪れてみたい。

[参考文献:「会津藩と新選組」改訂新版  歴史春秋社],[鶴ヶ城展示より]        

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