Division 3-① 戊辰戦争の地 会津若松市 藩主松平容保を訪ねて 2024/9/28~29
今回の福島・新潟 の旅の締めくくりは、『会津若松』
戊辰戦争の中、飯盛山で19名の白虎隊員が自刃したことで有名な会津若松市、
鶴ヶ城藩主松平容保が生き延びて日光東照宮の宮司に明治13年2月任命された
飯盛山には白虎隊十九士の墓と国指定重要文化財『さざえ堂』という約230年前に建立された6角形で3層の建物、3階までの板張り廊下を上がって下るまで一方通行で、向かい側から上がってくる参拝者とは合わない構造で、世界でも珍しい建物がある。
と言うことを西鋭夫教授の講演で聞かされた。
そして、藩主が切腹をしないで、自分だけ助かる道を選ぶ行為が、
戦国武将ならありえない行為だと説いていたのを聞いて、
現地会津若松、鶴ヶ城を訪れ、自分なりに調べてみることにした。
※ 西鋭夫教授:1941年12月大阪生まれ、ワシントン大学大学院で
修士号を取得後、博士号(国際政治、教育学博士)を取得、
論文がフーヴァ―研究所シニアフェロー ラモン・マイヤーズから
評価され1977年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所博士号取得研究員。
(ウィキペディア)
『Unconditional Democracy』や『国破れてマッカーサー』など
日本占領期間中の重要文書・資料など日本人が見たこともない
重要文書・資料など驚く内容をまとめた著書が多い。
私は西教授著の『アメリカ帝国 滞米50年』
ダイレクト出版を読ませてもらった。
※どんな日本一周を考えているの❓こちらへ
Division 1 東武鉄道~野岩鉄道~会津鉄道~JRを乗り継いで会津若松に入る初日の旅
湯野上温泉駅から猿遊号専用バスで大内宿に寄る)
Division 2 只見線 柳都shu* kura号 鉄道の町新津 磐越西線SLの旅
松平容保の側近だった北原雅長が著述した『七年史』歴史は学生の頃から、それほど好きでなかったが、藩主松平容保が将軍松平慶喜と同じように、切腹せず生き延びた行為が、武士として信じられないとの話を聞かされて、慶喜と同じようなことを藩主容保がしたのか興味を持つようになり、今回の日本一周のコース「新潟・福島」の旅に、会津若松に訪れ、
容保が『鶴ヶ城』の第9代藩主になるころから時系列に容保を追いかけることにしてみた。
徳川慶喜―その悪癖と限界
会津新選組記念館に行った時に歴史春秋出版の『会津藩と新選組改訂新版』が置いてあったので、会津藩の歴史を知るには丁度良いと思い購入した。特に松平容保が京都守護職として赴任した時の側近だった人物『北原雅長』が書いたとされる『七年史』の記述に「徳川慶喜の浅薄な言動を伝える文章」が、かなり多いことに気づいた中村彰彦氏(歴史小説家・直木賞受賞)が執筆した、『徳川慶喜―その悪癖と限界』そのタイトルに魅かれた。
私は、第15代将軍松平慶喜が、鳥羽・伏見の戦いで不利になってきた幕府軍の将兵に内緒で、幕府艦で江戸に帰ったぐらいの知識で、酷い将軍だなと思いもしながら、平和裏に解決する策もあったのかと、そんなに深く考えてこなかった。
鶴ヶ城主松平容保を追跡する 室町時代には「黒川城」だったが、蒲生氏郷(織田信長の娘婿)が会津藩主になった時に「若松城」に変わり、正式名称は『会津若松城』、そして今は『鶴ヶ城』で親しまれている。松平容保藩主の前の保坂正之が黒瓦から赤瓦に変えたと言われている。その後黒瓦に変えられ、平成23年赤瓦に塗り替えられた。
1846年(弘化3)軍艦二隻が浦賀沖に来航、「日本に通商する意思があるか」という打診に対し幕府は断り、艦隊は静かに退去した。このような時代に松平容敬は、藩財政が極度に悪化していたこともあり、江戸湾の警備には、軍備も金も人もない中で警備の意味がないと辞退を申し出たが、「いい加減な藩には任せられない、将軍家の身内である由緒ある会津藩だからこそ、無理を承知で頼んでいるのだ」と言われやむなく引き受けていた。そんな大変な時世に容敬が急逝、容保が18歳で就任したのだ。
幕府は海防強化の為、会津、彦根、忍、川越の各藩に江戸湾警備を命じた。会津藩は千葉の安房、上総が割り当てられた。
1852年(嘉永5) 第9代藩主として、松平容保が18歳で就任。その翌年にペリー来航を迎える。
1862年(文久2) 幕府は一橋慶喜を将軍後見職、越前藩主松平慶永を政事総裁職に任命、京都治安維持の為、守護職を打診するも慶永は固辞した。 幕府は苦慮の末、会津藩主松平容保に絞り、容保が病気で床に伏していた会津家に内示をする。公家社会に人脈を持たず、京都守護職を務めるのは無理だと強く辞退した。松平慶永は何度も手を変えながら執拗に、床に伏している容保に直談判をする。それでも容保は就任を断る。
最後は根負けしたのか『再三の固辞を一身に安全を図ることばかりを考えての固辞だと、言われる手は決心するほかあるまい』と言って就任を引き受けた。
松平容保京都守護職に就任
1862年(文久2) 京都守護職就任、28歳 会津藩兵1000人を卒いて京に入る。
1863年(文久3) 将軍家茂が入京、容保に京都守護職を無理やり押し付けた政事総裁職の松平慶永は職を辞職して帰国、将軍は数日の滞在で江戸に帰った。容保は独り尊攘派の坩堝と化した京都に残った。
(まわりの重鎮らは容保に押し付けて、自分たちは逃げていく人が目につく)
1866年(慶応2) 十四代家茂死亡。十五代将軍には慶喜が任命された。(30歳) その20日後に孝明天皇が崩御した。(反幕府派岩倉具視に暗殺されたとの見方もある)
1867年(慶応3) 15歳の睦仁親王、明治天皇が受け継ぐことになった。
鳥羽・伏見の戦いが始まる
1868年(慶応4)1月2~4日 鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍約15000人、敵の3倍の兵力と良い装備をしているので、慶喜は楽に勝てると思っていたので、大阪城を動かなかった。薩摩が天皇を連れて逃げないように、味方の諸藩に守護を頼むと手紙を送っている。しかし敗北した。
鳥羽・伏見の戦いが敗北した要因
1868年(慶応4)1月5~6日
,p>会津藩士は奮戦したが、最も犠牲が多かったようだ。敗北した要因の分析をしてみると ①薩摩軍本営に偽の錦旗立ち上げたのをきっかけに、本物と思い込んだ総大将大河内が撤退を命じ、これに幕兵・会津兵らの戦意が挫けてしまった。 ②淀城で入城を求めたが、城主が不在との理由で固く入城を拒否。6日津幡が薩摩側に寝返り、幕府軍に砲撃してきた(味方の裏切りが続く) ③兵力が十分にあったのに、薩摩軍を包囲する作戦を取らなかった指揮官の油断があった。1月6日 慶喜は幕府軍の各隊長等を大広間に集め、今後の対応を訪ねた。発言は再挙を望むばかりで、幕府軍の士気を鼓舞する為、慶喜の出馬を求める声が多かった。慶喜は「それではこれより出馬しよう。皆用意せよ。」将兵は喜びの声を上げ勇んで持ち場に引き揚げた。
ところが、慶喜は、松平容保と松平定敬を引き連れ、夜10時に頃大阪城を出て、大阪湾に停泊していた米艦で一夜を明かし、翌朝早く幕府艦「開陽丸」に乗り、江戸に逃げ帰ってしまった。そこに松平容保も一緒だったのだ。(無理やり乗せられたという話もある)
徳川の為になお戦おうという者たちを平然と偽って逃亡したのだ。幕府の総責任者の自覚もなく、最高指揮官の地位を放棄した。1868年(慶応4)明治元年1月12日 新政府は江戸に帰った慶喜を追いかけ追討令を発し、徳川家の領地は天皇が直轄すると宣言した。
2月8日 容保は江戸に戻ると、幕兵と共に討幕軍を迎える覚悟だったが、慶喜は戦意がなく容保に登城を禁じた。容保は慶喜に会い、藩主の地位を養子の慶徳に譲ることを申し出たうえ、慶喜にならって輪王子寺宮に謝罪嘆願を依頼し、恭順の姿勢をとった。 (容保は慶喜と同じ道を歩むように考えるようになったのだと思う。)
2月11日 容保と家老連名の嘆願書を朝廷始め尾張、加賀、肥前土佐など22藩に提出し、和平の斡旋を懇願した。このことが藩内の主戦派の怒りをかい、容保を突き上げた為、容保は抗戦の気もないのに、本音を抑え抗戦の準備を進めた。これも慶喜と同じことをしている。
将軍松平慶喜は上野寛永寺で謹慎生活に入った
[参考文献:「会津藩と新選組」改訂新版 歴史春秋社] Division 3-②へ続く